高麗川清流

高麗川コンクリート遊歩道に反対し計画再考を求める会

進化する河川思想に逆行する高麗川まるごと再生プロジェクト――政治家の責任と倫理及び行政の役割を思うと新たな怒りが湧き起こる

 3月14日の清流橋から見た工事現場です。橋の袂にある工事の概要看板によると、目的は「護岸・遊歩道工事」とあり、その主な内容は、かごマットと石積みによる「法覆護岸工」(“のりふくごがんこう”と読みます)です。工事金額が表示されていません。
 清流橋~お蔵淵は、看板にあるように2工区なので、1工区と合算の金額がどこかに示されているのかもしれませんが、工区毎の予算が分かった方がいいです。
 護岸の段数が増えてきました。何段までいくのか。

  • 段を設けることは、この場所の護岸は本来は一段で作ってしまうはずだが、壁のラインが余りに直角に近いので視覚上の緩和を行うため――→環境に配慮
  • かごマットと石積みだから自然にやさしい――→現在の河川工法で最大限に自然に配慮

 と行政や工事関係者等が言うことがあるが、高麗川まるごと再生プロジェクトについては、そもそも目的そのものが誤っているのだから、この言い方で話しを完結させるとしたらおかしいのです。

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6段まで石組みが積み上がった。
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急傾斜の護岸の上に2メートル幅の手すり付きコンクリート遊歩道ができる。
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 河川が人間全体のもの、生き物全体のためのものである、という考え方が、20年ほど前から徐々に取り入れられて広まってきました。高度成長期を経ての、河川を破壊するだけの土木工事への国民からの批判が高まり、人間と自然環境を重視する確固とした方向が、今や国の考え方・技術両面から、政策として、具体的方針として定着しつつあります。
 河川関係の文献を調べてみると、人間と環境重視の思想が、技術に素人でもよく理解できるほどの言葉と表現で書かれています。現実の計画や工事は、未だにこの方向に沿わず旧態の例もありますが、私たち市民は、国のこの方向をしっかりと受け止め、更に進めなければなりません。

◆進化する河川思想

 私たちが各方面から、高麗川まるごと再生プロジェクトのコンクリート遊歩道に反対の立場でアプローチする理由は、会の提言や具体的提案で述べてきました(ブログメニュー参照)。工事の進行を見ると、改めて、いや今まで以上に、政治家の無知や倫理に乏しい政策・言動とそれを進める行政の姿勢が、地方自治や民主主義を逆流させ、河川を人間と自然のものとする流れに沿っていないことを痛感、怒りが新たに沸き起こってきます。
 日高市が立案し埼玉県が予算を付けた高麗川まるごと再生プロジェクトは、世界の河川思想の流れにいかに逆行するか、次に挙げる動向から分かります。

  • 1990(平成2)年 建設省河川局治水課「多自然型川づくり」方針
  • 1997(平成9)年 河川法改正で防災と同時に環境との調和が基本に
  • 2006(平成18)年 国土交通省河川局「多自然川づくり基本方針」。90年方針から“型”が取られて、地域の自然と歴史及び伝統を重視する国の河川方針確立

 この流れは、国土交通省の護岸について書かれた技術解説にしっかりと定着していることが分かります。
http://www.mlit.go.jp/river/shishin_guideline/bousai/saigai/measures-saigai/pdf/04.pdf#search='%E8%AD%B7%E5%B2%B8%E5%B7%A5'
 この文書は、護岸工で検索すると最初に該当の章が出て来るが、正式文書名は不明です。ただPDF文書のURLに「美しき山河校了2014」という編集制作上のタイトルが出てきます。これを頼りに検索すると「美しい山河を守る災害復旧基本方針」という河川局発行の文書があるので、これではないかと思われます。
 技術や工法について、自然に反する、拮抗することは“控える”という表現が何と多いことか、そして河川の本来的自然と動植物の生態に基づく具体策。
 石組みを行う際の、石の色が回りの自然に溶け込むためのカラーチャートまで示されている!

◆問題はここから

 問題はここからです。
 これらの人間と環境重視の河川思想が、文書のタイトルから明らかなように、災害対策、治水を前提としたものです。これは国民の生活の安全と維持を目的とする河川改修として当然のことです。
 高麗川まるごと再生プロジェクトの問題性は、災害対策や治水を考慮しない河川改悪であることで、現在の世界、日本の河川に対する思想・考え方が、事業計画の外側にはじきだされてしまっていることです。
 もちろん、多段の護岸、石組み、かごマット等の個々の技術には、その成果は国の指針として適用されるのだろうが、ここで冒頭に書いたことを再度書くと「目的そのものが誤っている」のです。従って、技術の問題よりも先に、政策の意思決定と執行のプロセスこそが重要になります。
 高麗川まるごと再生プロジェクトにも適用された埼玉県の事業目的はこうあります。
――――<埼玉県がHPで示す目的>―――――――――――――――――――――
◎水辺再生100プランのスポット的な水辺再生から、
  一つの川を上流から下流までまるごと再生へステップアップする
○市町村のまちづくりと連携して面的な広がりを持たせる
○川や地域の特性に応じた再生テーマを定めて取り組む
○県民が取組成果を実感することで共助による川の再生を推進する
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 何度でも言いますが、目的そのものが間違っている。人間と自然環境を重視する河川思想の進化が、災害対策や治水分野でこれだけ起こっているのに、それが反映しないどころか逆行することを行っていることです。

  • 自然河川の上流域に、つまり、まちづくりをする必用のないところに人を誘導して“にぎわい”をつくり出そうとする時代錯誤
  • 川や地域の特性に反したコンクリート遊歩道という再生テーマ、
  • “共助”どころか、取組方針と成果も実感させない情報・説明不足

 知事の公約実現のための時限付き事業で、時間のかかる用地買収を行わない――必然的に河川敷への建設となり破壊につながった。また県に提出の日高市案にはコンクリート遊歩道案はなかった。それがいつの間にか正式ルートをはずれた形で事業化が決まった。遊歩道当初案の3億円とも言われる事業がどこで決まったのか、 杳(よう)として分からない。
 政治家の責任と倫理、及び法律の運用ノウハウと裁量で事業化を進める行政について、「公」の精神はどこにあるのかを問いたい。
 パズルのピースを合わせるような論の組み立てと文章を書くのにいささか疲れました。筆者は川の専門家ではありませんが、流れの方向の読みは誤っていないと信じて書きました。今回の文章を書くに当たって、金沢学院大学大学院教授 玉井信行著「水辺整備のあり方について」(「リバーフロント」2010、Vol.67)を参考にしました。

整備で壊れる景観、入間川も――入間川散策人からの投稿

 入間川の河川敷、中州の景観を愛する狭山市の散策人からの投稿がありました。
 入間川もここ数年、川辺の整備が進められていて、自然の景観が壊れていくことを嘆く内容です。
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 入間川もここ2年ほど?コンクリート歩道等の沿岸の整備が進められています。同じ計画の一環でしょうか?
 緑に茂った中州はごっそり削られ、水の流れも大きく変わりました。道ばたの草を眺めながら歩いた砂利道は黄色い歩道に生まれ変わり(しかもなぜ黄色に?)
下流の川のようになってきました。
 以前はよく散歩に出かけた川沿いですが、私はすっかり足が遠のきました。
 整備することによってはたして人が川辺に集まるようになるのでしょうか。ある人はやって来るかもしれませんが、私のような人は来なくなるでしょう。動植物も減ることでしょう。
 自然の景観が壊れていくことを残念に思います。
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狭山市でも川のまるごと再生プロジェクトは、平成24年以来実施されています。川のまるごと再生プロジェクトは、1つの川の流域市町村を関連づけるやり方で行われています。その連携させるやり方――日高市であれば巾着田から坂戸市までコンクリート遊歩道をつなげ(実際はつながらない細切れ)、川筋に賑わいを作り出すこと、ということです。
 「まるごと」の意味は、ピンポイントではなく必ず複数自治体にわたる線の事業として計画されていることです。
 狭山市の場合も、入間川流域の川越市との連携事業となっています。プロジェクト事業を事前に審査する県の川の再生懇談会の資料(下図:真ん中に黄色い歩道が)を見ると、大きな事業目的が2つあります。
 1つは、河川敷の河川公園を結ぶ広域遊歩道をつくること、2つ目は、魚道を設置すること。魚道については、水利権の問題や既設堰の構造等、市民には容易に見えない大きな問題が山積しているのですが、アユなどの魚類の移動のためには必用なことです。

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 問題は、投稿者も指摘する広域遊歩道の必要性です。「まちなかと川、公園とをつなげ活性化をはかる」という名目・目的が、いかにムダな事業をつくり出す役人発想(政治家の利権発想もあり得る)かということで、日高市のコンクリート遊歩道建設の無理筋と一致します。
 都市計画上の市街化区域は当然のこと、市街化調整区域も、土地の私有制のもとでは常に開発にさらされています。法律の網の目があっても、ある日、突然、何らかの建設構造物の出現や景観変化が起こりうる。しかし、河川敷は国家管理(一部は都道府県)の最たるもので私権の容易に及ばない区域で国民の財産です。都市生活を営む現代人にとって、私権の及ばない河川敷には“無用の用”があるのではないでしょうか。
 治水のための堤防で仕切られた河川敷は人間の生活を守る偉大な公共空間です。形態的には、ただの野っ原、中州、氾濫原等で、利用・効用からすると“役に立っていない”空間と見られがちですが、それは浅はかな考えだと思います。景観や自然を楽しむことはもちろん、自然の脅威・驚異や自然の倫理・権利等、私たちに、いろいろな価値を考えさせる空間です。
 そこに、まちなかの賑わいを呼び込むことなど必要無い、あの広い空の下での自然を楽しめる、感じるための場所であって欲しい。投稿者のご意見は、こういうところにつながるのではないかと思います。
 知事や市町村長の選挙での公約が、政治家や官僚が介在することで一人歩きしていきます。「川のまるごと再生」にみるような机上の空論が実際に事業化されてしまうことに恐ろしさがあります。

由らしむべし,知らしむべからず?―― 2つの事業進行から見えること

 日高市高麗川まるごと再生プロジェクトは、市民に悟られないよう情報統制を徹底して行ってきた悪しき行政の見本、と言えると思います。前回の記事で、その遠因と思われる日和田山の事例を取り上げましたが、今回は、役所の体質として、市民目線と離れた根っこについてです。
「由らしむべし,知らしむべからず」という言葉があります。

日高市は「誤った解釈」か

 この言葉についてネットで検索すると、まず冒頭にgoo辞書が出ます。
 同辞書には、「《「論語」泰伯から》人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることはむずかしい。転じて、為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわからせる必要はない」とあります。(下線は筆者)
 検索2番目の故事ことわざ辞典は「民は之に由らしむべし之を知らしむべからずとは、為政者が定めた法律によって人民を従わせることはできるが、その法律の道理を理解させるのは難しいということ。」注釈として、「人民は法律に従わせておけばよいもので、その意義や道理を理解させる必要はない、との解釈で使われることも多いが、本来の意 味ではない」とあります。(下線は筆者)
 役所で、先輩からこの言葉を教えてもらった、という記事もありました。総務省の高官が国民と行政の関係を規定する行政手続法や情報公開法を解説する文章の中で、誤った解釈で使用している例もありました。
 故事ことわざ辞典に拠るとすれば、goo辞書は、間違った解釈のままです。goo辞書の出典はデジタル大辞泉で、「小学館提供の本格的な大型国語辞典『デジタル大辞泉』を搭載。デジタルデータの特性を生かし、年3回の定期更新を行っている」とあります。
 大辞泉の監修・編集はそうそうたる複数の学者ですが、“本格的大辞典”にしてこの誤った解釈です。とすれば、この解釈が、全国の「公」に蔓延していると想像しても良いかもしれません。
 日高市行政も、高麗川まるごと再生プロジェクトの対応から見ると、「誤った解釈」が組織の根柢に潜んでいるのではないかとの疑いを抱かざるを得ません。
 以前、市役所で「そういう資料を出しても、どうせ分からないんだから出さなくてもいい」という某主幹の発言を偶然耳にしたことがあります。「由らしむべし,知らしむべからず」の誤った解釈が日常化している可能性があります。時代の趨勢もあって改善している部分もありますが、協働も情報提供の姿勢及び説明責任も、明らかに後退しているようです。
 現市長は市役所職員の出身、副市長も同様となると、組織全体として同質の中に安住していないか心配になります。議会も同様、同質に安住し、執行部局の監視の役割を果たしていません。

安岡正篤氏の言葉

 政治家も経営者も信奉するあの有名な安岡正篤氏の言葉として「由らしむべし,知らしむべからず」の解説がありました。誤った解釈に対してこう述べています。
「たとえ論語を読まずとも、少しく落ち着いてものを考えたならば、これをそんなに解釈できるわけはないと思う。その生涯を人道のために捧げて、特に民を思うの余り、非難も迫害も顧みず、政教の改革に熱烈な努力をした孔子ともあろう人が、どうしてそんな民を愚にするような説を吐こうか」。さすが信奉される思想家の言です。
 さらに、この言葉は、孔子が時の為政者に向かって政治の心得を説いたものであるとしています。つまり、「論語学者の註釈を待つまでもなく、これは孔子が時の為政者に向かって政治の心得を説いたもので、民衆をして政府の為す所に信頼せしめよ、之に一々わからせることは出来ないものだ」とのこと。氏の解釈を引用したネット発言は沢山見られます。
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◆市長の見識と組織のあり方

 それにしても、とつくづく思うことがあります。
 横手台団地の小学校用地のグラウンド工事が進み、日高市の帰属となります。8年前、ここにビジネスとしての温浴施設をつくる密かな計画が浮上し(注:この場合も密かな計画だった)温泉源のボーリングまで行われました。日高市はこの企図に加担していました。公共用地として認知されていた土地に温浴施設とは何事ぞ、と反対運動が起こり、以来7年間かかってようやく返還が実現、真の公共用地、日高市財産となりました。
 住民の土地・住宅購入時の約束事や議会の決議という証拠があっても7年間という長い時間を要しました。様々な抵抗や妨害を乗り切り(当初の脅しや脅迫には弁護士の助言で対応)最後には自治会の総意となっての公共用地化の達成です。事実と住民意志を背景にした言葉と論理で、埼玉県や日高市及び西武鉄道等と渡り合い、粘り強く交渉してきた住民組織があったからです。
 そして目的は達成され、昨年12月、住民組織「横手台・永田台・武蔵台の住環境を良くする会」は解散しました。
 丁度、時を同じくして、県と市の共同事業「水辺再生100プラン 横手・巾着田地区事業」「高麗川まるごと再生プロジェクト」が進行していたのです。
 同じ組織の中で、一方で、日高市が加担した誤った事業を中止させ引き戻すべく、ボランティア住民組織が発進させ、膨大な時間と努力が注がれる話し合いが進行、他方で、高麗川の自然と歴史及び伝統を破壊・改変するムダな土木公共事業が市民に知らせず密かに進められていました。
 両方とも、一部の人間の企図に日高市行政が加担、あるいは立案で、市民に知らせない計画・事業です。
 小学校用地の返還・公共用地化で住民と話し合う経験が活かされず、行政の市民目線の確立に役立っていない、と思わざるを得ません。
 行政としての行動の振り返りと住民との話し合いに基づく良好な関係性の追求ということ――2つ事業の過程を見ると、このまちづくりの基本が日高市に根付くのだろうかとの思いが起こります。
市長としての政治家としてのリーダーの見識と、「由らしむべし,知らしむべからず」の誤った解釈に染まらない組織を期待したい。


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市民を情報から遠ざける市の今回の姿勢、12年前のこの一件から

◆日和田山、ふるさとの森での埼玉県による生活環境保全事業
 12年前の、この県市共同事業をご存じだろうか。
 20004(平成⒗)年、9月15日付け広報ひだかに、埼玉県の生活環境保全事業についての記事が掲載され、意見募集がありました。事業地は日和田山のふるさとの森で、予算1億4000万円。
「生活環境保全林とは、森林の機能を発揮させるため、治山事業の一環として遊歩道や東屋などの利用施設を整えレクリエーションの場として活用」という説明で行われる農水省事業で、都道府県が補助金によって実施し、市町村が協力します。治山事業にソフトな趣を施してあるのですが、実態は土木公共事業です。治水とストレートに言わず、生活環境保全事業という中身がよく分からない仕組みと説明になっています。
 この広報を見て、内容がよくわからないとして一層の説明を求める市民要望が起こりました。県による説明会が2度行われ、日和田山頂上での現地説明会も行われました。結果、中腹までのコンクリート遊歩道が中止され、山中に建設予定の3基の堰堤も中止され、予算は大幅に減額されて実施されました。
 写真は、当時、配布された反対のチラシです。この他にも、一つ一つの工事について、山をよく知っている市民による調査報告が配布されました。間伐や植林、作業小屋以外の大半の建設事業が否定されたのです。この時も、“市民に相談も説明もない”出来上がった計画が前提でした。

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 今回の、高麗川まるごと再生プロジェクト事業は、この轍を踏むまいとして、最初から徹底して隠し、例え一部地域で疑問が呈されても強行突破されてきました。知らせたら必ず反対される、という“日和田山学習効果”が最大限発揮されました。ところが、密かに進めてきた最後の大事業が工事着手寸前に“発覚”し、市民に知られることになりました。
 12年前の生活環境保全事業と今回の高麗川まるごと再生プロジェクト事業の本質は全く同じです。「健康やレクリエーション」「川の再生、親水空間・水質向上」などのソフトな仕掛けと趣旨による税金の無駄遣い公共事業であることです。胸を張って実施できない事業を秘密裏に進める方向に学習効果が行ってしまう。残念で情けないことです。
 12年前の時は、A氏が積極的に情報解析し、市民説明会実施に漕ぎ着けました。その間、現知事とも相当な激しいやりとりがあったようです。
 その時の資料の一部が手元にありました。再び、同じようなことが起こるかも知れないと思ってです。
 予感は当たりました。今度は日高市が主役として、政治家も、知事、県議、市長が三者三様の思惑と動きが合算された形で地方自治に逆行する酷い結果になりました。地域の歴史と資産と伝統を破壊する政治が日高市でなぜ可能となるのか。行政も結局、その方向に引っ張られ、同じ道を歩む事になってしまうのだ。

何ということをするのか――娘と孫といっしょに川辺で遊ぼうと来たところが……

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 橋の上で出会った家族との話です。
 高麗の自然に惹かれて日高市に移住3年。
 清流橋からの景色が何よりも好きだった。
 東京大田区に住む娘と孫を呼んで水辺の散歩にきたが、この工事。
 「何ということをするのか」
 初めて見る工事の状況に絶句。
 網と水槽を手にしている小2の孫に目をやりながら、「この辺を散歩していくわ」。
 「こういうことが可能になってしまうのは一体何なの?」という言葉を残して。
 3月30日の清流橋から見た工事。
 護岸が積み重なってきました。改めて思う。数億の税金を使って遊歩道を作る必要性などどこにもないことを。
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護岸とコンクリート遊歩道をめぐる思惑

3月13日、清流橋から。
高麗川まるごと再生プロジェクトの清流橋~高岡橋の工事は着々と進んでいます。
この突貫工事は、27年度事業であることと、遊歩道を作る理由をいろいろ挙げていた市産業振興課が最後に触れていた、高麗郡建郡1300年祭で来る観光客に歩いてもらう、ということもあるかもしれない。
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<清流橋下流の写真にある護岸工事>
 この護岸工事には、こんな事情、思惑があったようです。超簡単に模式図的に書けばこういうことになるのではないかと思います。

【県土整備事務所】……日高市区域の高麗川についての見解
            ⇒ 理論的にも経験的にも洪水の心配はない ⇒ 日高市高麗川に治水の問題はない
【県の基本】……………用地買収は行わない ⇒ 必然的に河川敷への工事 
【地元(の一部?)】…川に接する民地(竹やぶ)の自然護岸の崩れ 
            ⇒ 護岸工事が必用だ。⇒ 個人財産浸食と治水の問題
【県と市】………………目的はコンクリート遊歩道を作ること    
            ⇒ 護岸の上に作る。 ⇒ まちづくりの一環の位置付け
                        (観光でも治水でもない)
            ↓
          問題の方向は異なるが護岸の必要性で共通

【地元(の一部?)】…遊歩道を認めれば護岸を作るいいチャンス
           景観的には一部を残せばいいだろう
【県と市】………………コンクリート遊歩道を作るために護岸が必須 

◎かくて、流域の治水・水辺インフラ問題、まちづくりに関わる市民全体の問題、環境等の問題を正面から検討することなく、地元利益の誘導と行政のコンクリート遊歩道建設促進の思惑が重なって工事容認に至った。高麗川まるごと再生プロジェクトの工事の決定には同じような例が各所で見られ、こういう行政のやり方でいいのか、また、それを追認してしまう民意の表現でいいのか、日高市の根本的課題が見える。行政の手法がそうならざるを得ないのは、トップダウン事業を進める政治リーダーの方針によるところが大きい。また、それを監視できない政治的環境というべきか。(横山秀男記)